『この甲斐性なし!といわれるとツライ』

この甲斐性なし! と言われるとツラい 日本語は悪態・罵倒語が面白い (光文社新書)

この甲斐性なし! と言われるとツラい 日本語は悪態・罵倒語が面白い (光文社新書)


日本語の語源を解説する書籍は書店でもよく見かけるが、本書は悪態・罵倒語に絞ってとりあげ、使用法の変遷を振り返っている。なぜその言葉が使われるようになり、使いつづけられるのか。新聞や、各種文学作品、古事記日本書紀などの古典、国会会議録などから用例を地味に拾っている。その地味な作業と対照的に目次は過激な文言が並ぶ。罵倒語の本だから当然といえば当然だが。

序章-バカヤロー!、1章ーブスとババアと淫乱と、2章ー弱くて臭いは甲斐性なし、三章ー犬は畜生、猫は泥棒、4章ー鼻くそほじって、クソ食らえ

目次を読んでいるだけで、誰かを罵倒しているいる気がしてくる。眺めているだけでもすごいが、声に出すともっとすごい。「鼻くそほじって、くそくらえ」など育ちがすこぶる良い私など言葉に出すのをためらってしまったほどだ。2章と4章を組み合わせて「弱くて臭いは甲斐性なし。鼻くそほじってくそくらえ」などと妻に叫ばれた日には三日くらい立ち直れないのではと夢想してしまう。

構成としては、序章をのぞき、各章4つずつの罵倒語(淫乱、くさい、大根足、犬畜生、クソ食らえなどなど)に対して前述したように地道な用例紹介で歴史をたどっている。 おもしろい用例が豊富なのだが、朝っぱらから破廉恥な罵倒語を取り上げるのも気が引ける。とはいえ、いくら本書を探しても罵倒語しか見当たらないのだから、ここでは罵倒語の中では私のお気に入りの「豚野郎」を紹介したい。
本書でも触れているが、「豚野郎」といえば数年前に、落語家の元妻が別れた夫を「金髪豚野郎」と罵って話題になった。私も、豚野郎などという言葉は鶯谷のSMクラブの女王様以外でも使うのかと感心した記憶がある。金髪と豚野郎を組み合わせるという斬新さもあったが、「豚野郎」という言葉の罵倒力がやはり大きかったのだろう。
その豚野郎の歴史は実は新しい。大正期に刊行された『モウパッサン全集第13巻』(天佑社)の「モレンの豚野郎」(現代ではモランの豚野郎と訳される)という作品に見られるという。婦女暴行事件を起こしたモランという男が豚のように好色だという意味で「モランの豚」という呼び名が町の人々の間では定着したという話だ。話の本筋とは関係ないが、モランが金髪なら文字通り金髪豚野郎だったわけである。
ここでの問題は原題「モランの豚」には野郎の文言がなく、明治期に日本に紹介されたときの邦題にも野郎の二文字はなかったことだ。著者は、江戸から明治にかけて名詞に野郎をつけて蔑称にするケースが散見されており、豚食の普及とともに罵倒語としても「豚」が認知を得たのではないかと指摘している。その後、豚を例えに使う言葉は主に罵倒語として使われるようになり現在に至るという。
余談だが、肥満体の人を豚と呼ぶ行為は戦国時代にすでにあったようだ。東北の名将として知られた最上義光の部下に裸武太之介(はだかぶたのすけ)と呼ばれる武士がいたという。ただ、現在とは「ぶた」の意味が若干異なる。「武太之介」は勇猛だが巨体に合う武具がないためいつも裸で出陣していた。「はだか」と仲間には呼ばれていたが、義光がその武勇ぶりを評価して「武太之介」の漢字をあてたというわけだ。ネガティブな印象はなく、賞賛の意味をこめて「ぶた」と呼ばれる時代があったのである。いまなら、「きみ、仕事できるねー、ぶーちゃんと呼ぶよ」と言う上司がいたものなら、確実にパワハラで裁判沙汰だ。むしろ、上司が豚野郎呼ばわりされるのは間違いない。

朝から豚野郎を11回も連発してしまったが、本書はどこからでも読み始めることが出来るのでお盆休み明けの寝ぼけた頭にも最適である。汚い言葉のオンパレードのためか言葉について解説しながらここまで知性の香りが漂ってこないのも珍しいが、それが逆に、私のようにこうした言葉についての本を避けてきた人間にはよみやすいのかもしれない。また、amazonのレビューでは実用的ではないといった趣旨のレビューが載っているが至極実用的である。例えば、私がお盆休暇に家族をどこにもつれていかずに、もしくは連れていっても、文句を言われ、挙げ句の果てに「この甲斐性なしが」と妻にいわれたとしよう。ぐうの音も出なかったとしよう。あくまでも例えばの話である。この本を読めば、「君こそ甲斐性なしだ」と反撃するのもありなのである。本書によれば、甲斐性なしとは特段、男にだけ向けられる語でもないのである。ただ、それを言ったところで、おそらく何も解決しない。状況は悪化する一方だ。本書を読んで「あの甲斐性なしが」と心の中でつぶやいて溜飲を下げることををおすすめしたい。罵倒されたときに相手を心で嗤うというおしゃれな術を学べるなんて、何とも実用的ではないか。

『ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか』

ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか

ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか


「9」日は眠れない。9日、19日、29日の夜、私はビール片手にうなっている。HONZのレビューを翌朝までに仕上げなければいけないからである。HONZの熱心な読者ならばご存じかもしれないが、HONZのレビューは輪番制。10日、20日、30日とゼロの付く日が私の当番日であるため、前日の夜ともなればオリンピックどころではないのである。

だが、考えてみれば、私の当番日は何ヶ月も前から自明なのである。「新刊の書評」というHONZの制約を差し引いても数週間先を見越してのスケジュール調整は可能なはずだ。それなのに、前日の夜、というよりも当日の未明になるまでレビューの執筆に着手しないのは我ながら何なのだろうか。なぜ、五輪のなでしこJAPANの決勝戦をまともに見れずに書評を書くハメになったのか。いきなり先制されたではないか。マンションの隣の住人がうるさくてたまらないではないか。ぎりぎりまで手をつけないなんて俺は単なる怠け者なのだろうか。そのような経緯もあり、このもやもやした心境を解消するとともにレビューも書いてしまおうというのが今回紹介する本。
 
著者は産業心理学の専門家。本書では既存の膨大な研究事例から先延ばしの要因を抽出している。対象は行動経済学から心理学、脳科学、進化生物化学まで多岐にわたる。全10章で構成されており、6章までで先延ばしの主因の解明や先延ばしの社会や個人に与える影響。残りで先延ばしを克服するための処方箋を心理学の側面から提示している。

まず1章、2章では先延ばしのタイプ分類や先延ばしのメカニズムについて言及する。行動主義心理学の研究によると先延ばしのタイプは3つに分類できるという。「どうせ失敗すると決めつけるタイプ」、「課題が退屈でたまらないタイプ」、「目の前の誘惑に勝てないタイプ」。私の場合、確実に3番目だろう。つまり、衝動性に弱い。著者の2万人を越す調査結果でも先延ばしと関連のある人格は衝動性という。

衝動性とはもっともらしい言葉だが自らをコントロールできなかったり直情的に行動してしまう性質だ。先延ばしするかどうかは、期待と価値を掛け合わせた未来の「ごほうび」の大きさと目の前にある「ごほうび」の大きさ(衝動性の強さ)の比較で決まるという。そして、その比較に影響を与えるのが時間だという。

つまり、こういうことだ。明日、レビューの締め切りだと思っていても、仕事帰りに30分程度なら飲んでも問題ないだろうと飲みに行く。1杯飲んだら、何杯飲んでも同じ気がして、「俺は追い込まれたほうがいいものが書けるのだ」と叫び、結局、居座ってしまい、日付がかわるころにようやく帰宅。家に帰っても「30分仮眠してからとりかかろう」と寝て、目を覚ますと3時を過ぎている。本も決めてない。ありゃまこりゃま、どうしましょう(←今、ここ)

単純な価値比較だと、私がレビューを書くことより、目の前のビールに目がくらんでいるみたいになるがそういうわけではない。、衝動性の強さに加え、明日の朝の締め切りという時間の長さが私をこうした状況に追い込んだというわけだ。私の場合、日刊紙の記者と言う仕事柄、毎日締め切りがあるので、1週間先の締め切りというのは永遠に先のような気がするし、明日の締め切りでも、「えっ、今日ではなくて、明日でいいの?」という感覚であることは確かだ。説明が長く「レビューを書くのは嫌いでないです。ビールより好きです」と必死に言い訳しているようにも映るが、著者は脳科学や動物行動学の研究によると先延ばしの原因は人類の遺伝的要因にあると説く。あなたが悪いわけではなく、人類の性なんですよとやさしく語りかけてくれるのだ。

 私たちは進化の過程を通じて先延ばしを行うようになったと3章では述べている。衝動性が私たちに深く刻まれているのは現代社会で必要とされるわけでなく、狩猟採集生活を送っていた時代にはその性質が有益だったからだという。眠りたいときに眠り、食べたい時に食べる生活パターンは生き残るためには不可欠だったのだ。「先延ばし」という現象が発生したのは9000年前に農業が始まったとき。種をまき、刈り取るという作業を通じて「締め切り」ができたのだ。その時から今まで、私たちは意志と行動のギャップに悩まされ続けている。脳回路はいまだに食べ物がすぐ腐り、天候がたちまち変わるような時代にふさわしい感覚を前提にしているからだ。ただ、感覚は変わらなくても、私たちははるか未来の課題に取り組まなければいけない。こうした状況を説明しながら、著者は先延ばし癖は私たちの落ち度だけではないと指摘する。朝5時を回った今、レビューを書きながらもyou tubeロンドン五輪の女子陸上をだらだら見始めて、この1パラグラフを書くのにに1時間かかったのも私が悪いわけではないのである。人間の捨て去れない習性なのだ。

とはいえ、先延ばしに対処しないわけにはいかないのが現実だ。5章では先延ばし癖が個人の財務状況や健康に悪影響を及ぼす例をあげる。6章では先延ばしの損害額をアメリカを例に算出し、いかに先延ばしが個人や社会に代償を支払わせているかを浮き彫りにする。アメリカンオンライン(AOL)の調査によると勤労者は8時間の労働のうち、2時間以上を先延ばしで無駄にしているという。結果、年間で最低でも10兆ドルの損失につながっていると試算する。

6章以降は前述のように先延ばしの克服方法について記述されているが、豊富な研究事例が盛り込まれている1章から5章までを読むだけでも自称「ミスター先延ばし」の私には考えさせられるものがある。先延ばしの損失がデータで多く示されていることもあり、「こりゃ、いかん」という気にもなってくる。早速、本レビューを書き終えたら、次回のレビューに何を選ぶかに取り組まなくてはいけない気がしてきた。レビューだけではない。連絡をしようと思って、先延ばしになっていた友人への連絡や、頓挫していた仕事に再着手しよう。俄然、前のめりになってきたが、著者はこうも指摘しているのである。「(先延ばしの)克服しすぎはよくない」。怠けて、だめなところがあるのが人間だと。過度な目的追求の無意味さを実証する先行研究もあるようだ。先延ばしすることは少しばかりは必要なのかもしれない。克服すべきかしないべきか。とりあえず、結論は先延ばしで寝てから考えようかなと。

『将棋名人血風録』

7月26日にプロ棋士歴代2位タイとなる通算1308勝を記録した加藤一二三九段の著作。「加藤一二三九段」と書いても将棋に一切興味がない人には何段か、わかりにくいかもしれないが九段である。「かとう・ひふみ・くだん」と区切る。本書は、「神武以来の天才」とかつて呼ばれた加藤氏がこれまで対戦してきた名人たちとの対決を振り返りながら、自らの将棋観を語る内容になっている。

実力制名人制度が施行された1935年以降に誕生した名人は加藤氏を除くと11人。全員と対局経験がある加藤氏が各人のエピソードを書くことで、近代将棋を支えてきた名人たちの実像と戦いの舞台裏をのぞける。特に20―30代の時に自らの前に立ちはだかった大山康晴氏やタイトル争いを繰り広げた中原誠氏、加藤氏が大好きらしい羽生善治氏などとの盤外のエピソードは面白い。

加藤氏と聞くと、「最近、自宅マンション周辺で猫に餌付けして付近の住民と裁判沙汰になった人でしょ」と眉をひそめる人もいるかもしれない。確かにその通りなのだが、単なる猫好きおじさんではないのだ。略歴を簡単にまとめると以下のようになる。



1940年生まれ。14歳7ヶ月で四段昇格(プロデビュー)、18歳で順位戦最高峰のA級に昇格。20歳で名人戦に挑戦。いずれも2012年時点でも破られていない最年少記録。1950年代から2000年代までA級に在籍記録を唯一持つ棋士。名人、十段、王将、王位、棋王などのタイトルを獲得。通算対局数、敗戦数は史上最多。愛称は「ひふみん」。




凄すぎる実績なのだが、将棋サークルでの存在感の大きさは棋力そのものというより、実力と奇行すれすれの行動のギャップに求められるのは間違いない。本書の副題が「奇人・変人・超人」で著者の加藤氏の意図としては対決した棋士のことを指しているらしいが、将棋を少しでも知っている人は「それはあなただろ」と突っ込んでしまう。加藤氏の変人ぶりを示す膨大な「加藤一二三伝説」がネット上などにも書き込まれているが、本書を読む限り、ほぼ事実のようだ。本書や過去の著作で本人が認めている話を中心に一部抽まとめてみた。ちなみに、通常こうした行為は盤外戦として、つまり相手への「ゆさぶり」として行うが、加藤九段は「意図に反して盤外戦と相手にとられた」と悲しんでいる。つまり、本人は普通にふるまっているだけなのだ。




・記録係に何回も「(持ち時間は)あと何分?」と聞く。聞いた十秒後にも「あと何分?」。1分将棋の秒読み中に「あと何分?」と聞き、テレビの30秒将 棋でも「あと何分?」。本人曰くリズムをとるためらしい。
・ただ、残り時間が紙に書いて提示されている対局中にも「あと何分?」と聞いて対戦相手があまりのうるささに激怒。
・寒いので電気ストーブを対局室に持ち込んで相手も寒いだろうと思い、等分に熱が届く位置に置いたら、対局者に「顔が熱いからやめてください」と怒 られる。
・電気ストーブで盤外戦を仕掛けたとの話が広まり、次戦の対局者に「私も使わせて貰う」とストーブを用意される。
・対局中に空ぜきを連発したり、相手の後ろに回り込んで盤を見たりする。ネクタイは畳に届くくらい長い。相手は気になって仕方がない。
・盤は部屋の中央に置かないと気が済まない。記録係が据えた位置でも直す。相手が嫌がったらくじ引きで決める。
・対局中の食事は昼も夜も常に鰻重。違う物を頼むと将棋会館に衝撃が走る。
・エアコンの温度設定22℃は譲れない。対局者と「暑い」、「寒い」を繰り返して互いにリモコンをいじりつづけることも。
・タイトル戦で「音がうるさい」と旅館の滝を止めさせたことがある 。止めようと思ったら天然の滝でとめられなかったこともある




加藤氏はこれらを全力で戦う上で、絶対に譲れないと主張するがあくまでも自分のこだわりだと語る。逆にこうした盤外戦を積極的に仕掛けたのが歴代最多勝の記録を持ち、通算18期名人を手にした大山氏だと加藤は指摘する。一生懸命に戦って結果を待つのが勝負哲学の加藤に対して、大山氏は相手の心理状態を汲み取り、力を削ぐために「10のうち3くらいは盤以外のことを考えながら戦っていたのではないか」と見る。例えば大山氏は対局中に相手が中座したときに座布団のへこみ具合から心理状態を観察していたという。例えば、前の方がへこんでいたら、「前のめりになって必死に考えている」=「悩んでいる」などと見て、対局を進めた。

自分が不利な状況でも巧妙だ。タイトル戦の多くは一局二日制だが、大山氏は形勢が不利と見るや、時間に余裕があっても中断して明日にしようと不自然に持ちかけることが何度もあったという。適当な理由を挙げては風向きを少しでも変えようと努めるわけだ。大山氏は晩年も勝利への執念は変わらなかったようだ。中原誠が持つ王位のタイトル戦では二日目の朝、対局前に盤の向きを勝手に90度変えたため、中原氏を激怒させたという。結局、この勝負は中原が勝ったが、年老いても勝負にこだわる大山の執念をあらわすエピソードだろう。

本書で大山氏と並び記述が多いのが羽生善治だ。帯にも羽生氏がコメントを寄せている。羽生氏の加藤評も本書では頻出する。「加藤先生は30年以上、全く同じ形の将棋しか指されない」と褒めているのかけなしているのかよくわからない発言も見られるが、お互いに敬意を示す間柄であることがわかる。

加藤は超一流の棋士であることは間違いないが、本人としては悩んでいた時期があったようだ。「神武以来の天才」と呼ばれ、若干20歳で名人に挑戦しながらもタイトルを初めて獲得したのは29歳の時。名人を獲ったのは40歳を越えてからだ。現在のようにタイトル数も多くない時代でもあったが、大山という巨大な壁が立ちはだかりつづけた。悩み、カトリックの洗礼を受けたのも30歳前後の時である。本人曰く「他者を気にせず、地道にでも自分なりに一歩一歩歩んでいけば幸せになれるのでは、新たな道が開けるのでは」という思いがあったという。天才も人の子だったのである。そして、人に何と思われようが好きな将棋に一局一局全力投球してきた結果が、通算1308勝、そして07年に達成した前人未踏の通算1000敗(現在1084敗)という記録につながったのだ。当時、加藤氏はこう語っている。「全力投球でやってきた結果なので、1000敗も恥ずかしくはない。自分の努力と家族の支えがあったから、ここまで指してこられた」。加藤一二三を知らない人でも加藤一二三が気になって気になってしかたがなくなる一冊である。

『全然酔ってません 酒呑みおじさんは今日も行く』

著者は酒飲みの間では有名なあの大竹聡氏である。「ああ〜」という声が聞こえてきそうなのは私だけだろうか。そんなことはない。居酒屋のオヤジたちは今の文部科学大臣を知らなくても大竹氏は知っているはずだ。JR中央線の各駅のホッピーを提供する店をマラソンと称して巡った名著『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』で酒飲み達の注目を集めたあの大竹氏である。酒飲みなら誰もが読んでいる雑誌『酒とつまみ』も手がけるあの大竹氏である。余談だが『酒とつまみ』で紹介されている、ねぎに塩をまぶして豆腐にかけてゴマ油をちょろっとたらすつまみは悶絶もののうまさである。本当にどーでもいい余談である。

本書はその大竹氏がひたすら飲みまくるエッセイ集である。09年に刊行された『大竹聡の酔人伝 そんなに飲んでど〜すんの』の文庫版で4本のエッセイを加筆して約30編が収録されている。対談も巻末に加わっているが、文庫化に際して特筆すべきなのは改題したタイトルだ。『ぜんぜん酔ってません』とは何とも素晴らしい。金曜日の新橋に赤提灯の中で交わされる会話から頻出ワードを抽出すれば、ベスト5に入るフレーズではないだろうか。千鳥足でも「ぜんぜん酔ってません」、上司に絡んでも「ぜんぜん酔ってません」、トイレから帰ってきてズボンの股間部がなぜかびしょびしょでも「ぜんぜん酔ってません」。酔っぱらいをこれほど象徴し、惹きつけるフレーズはないだろう。酒に強くないが性懲りもなく飲んでしまう私も思わずタイトル買いしてしまったわけだ。

正直、朝っぱらから酔っぱらいの本など紹介するつもりは毛頭無かったのだが、昨日の深夜に「さて明日のレビューを書くか」と景気づけにビールをぐびぐび飲み、酒のつまみに本書を読み始めたら読むのがとまらなくなってしまった。気づいたら「これは書くしかない」と気持ちが高まっていたわけだ。雪崩式に決めたように映るかもしれないが、もちろん、全然酔っていません。帯には作家の伊集院静氏が「これだけ飲めばひとつの哲学である 」、重松清氏が「読み始めると止まんないよ」と書いてあるがその通りなのだ。

肝心の中身だが、作家の酒や酒場に関わるエッセイなどを読むのが好きな方には、この本はおすすめだ。当然だがどこから読んでも酒の話だからだ。私は作家のエッセイ集から酒場のシーンを必死になって探して読んでは、「この人も酒では苦労しているのだな」と何とも切なくもうれしい気持ちになるのだが本書ではそれが全編を通じて味わえるのである。なんと贅沢なことか。

「苦労しているのだな」と書いたが本書は切なさやうれしさを飛び越して、むしろ感心してしまう。本書の大半のエッセイは大竹おじさんが飲んで飲んで飲まれて飲んでぶっ倒れるまで飲んで、次の日もまた飲む話だからだ。35時間ぶっ通しで寝ずに仕事して、その後、10時間くらい飲み続ける話などこちらが心配になってくる。
あまりのぶっ飛びぶりに、単行本出版時は創作じゃないのかとの指摘もあったらしいが、全編を通じて、酒飲みの泥酔時の気の大きさと素面に戻ったときの小心さがうまく描かれており、これは紛れもなく実話であろうと思わせる。例えば「飲みすぎてやらかした。ああ運転手さん、ごめんなさい!」というエッセイで、恐る恐る前日の愚行を必死に思い出そうとするも、はっきりとは思い出せず、いや思い出したくないと思いながらも記憶を辿るシーンなどうなってしまう筆致だ。気づいたら高尾やら藤沢やらの駅に佇んでいる自らのあほさ加減をを記した一編「目的の駅をいつも通過するブラックアウトエクスプレス」も秀逸だ。飲んだ帰りに乗り過ごさないための策略を練りながらも、泥酔して寝てしまうことで見知らぬ駅で降り続ける。「わかっているけどやめられない」を軽妙に描くさまは酔っ払いエッセイの金字塔だ。

本書は酒飲みの「あるある」共感本に終わらず、酔っ払いエッセイという芸としてジャンルを成立させているといっても過言ではない。それは意識か無意識か下ネタを盛り込んでいないことに関連しているかもしれない。巻末の対談でも指摘されているが、この本、酔っ払いおじさんにつきもののエロが皆無なのだ。そのため、いくら酔っても明るいだらしなさで留まっている。エロ特有の湿り気がないのだ。文章のベクトルがエロにぶれずに全力で酔っぱらいの惨劇に向かっているから、こちらもためらいなく笑えるのである。

それにしても、タイトルの『ぜんぜん酔ってません』が何ともよい。完全なタイトル推しである。同じことを冒頭にも書いて最後にも書くなど、私、酔っているのかもしれない。すでに、ビールから切り替えて、ハイボール3本目であるのはどーでもいいか。結局、『ぜんぜん酔ってません』というタイトルはおじさんの「おれはまだまだのめるぞ」という、どーでもいいはずのかすかな見栄が見え隠れするところがなんともよいのだ。私などは面倒くさいので、最近など飲む前に「1杯でべろべろです」など予防線をはってしまうが、本書を読みすすめる内になんだかそれではいけない気がしてきた。嘔吐しても、吐瀉物が髪についても「ぜんぜん酔ってません」と言い張れるスピリットが30代前半で欠けているのは、いかがなものだろうか。著者が言うように、このままでは「ぜんぜん酔ってません」おじさんが日本から絶滅しかねない。我こそはと率先して「ぜんぜん酔ってません」おじさんにならなくてはいけないのではないだろうか。そういえば今日は金曜日だ。本書を持って新橋へ行こう。

『異貌の人びと』

異貌の人びと ---日常に隠された被差別を巡る

異貌の人びと ---日常に隠された被差別を巡る

本書は自らも関西の被差別部落出身の著者が海外の被差別民族や迫害を受けている人々に迫った6編のルポから構成されている。「日本のマイノリティから国外のマイノリティに視点を向けたのか」と安易に考えて読み始めたが、実は、本書、著者が大宅賞受賞以前の雑誌掲載の作品が中心だ。「名が売れたので昔の作品を安易にまとめちゃいました本」なのかと思ってしまうかもしれないが、決してボツ原稿の寄せ集めではない。ノンフィクションを取り巻く環境を考えれば、今ほど知名度の無かった著者の当時の原稿が日の目を見るのはなかなか難しいのが実情だったのだろう。出版社から取材費を何とか出して貰い、手持ち資金がこころもとない中、自分の問題意識に少しでも引っかかれば戦地だろうが山奥だろうが向かう。銃弾が飛び交っていてもおかまいなし。時には掲載のめどがついていなくても、見切り発車で現地に出向く。狙い通りに取材が行かないことも少なくないが、その苦悩の過程も含め楽しめ、考えさせられるのが本書の醍醐味だ。現在の著者よりアグレッシブではないかと思えてしまう若かりしころの著者の姿がそこにはあるのだ。

取材対象は幅広い。ネパールのゲリラの女兵士から娼婦、イラク内戦下のロマの娼婦、コルシカ島のマフィア、サハリンの少数民族などなど。一見、バラバラだが対象が過去や現在に戦争下に身を置いているところが不思議と共通している。なお、娼婦が2回出てきたのは気のせいでもなく、誤記でもなく、私の趣味でもない。取材費を出してもらっている以上、ネタに窮して「何もかけません」では話にならないため、追っていたネタの雲行きが危うくなれば記事としては及第点が狙いやすい娼婦取材に出向くのだ。「娼婦?何が異貌だよ」と野暮な突っ込みはしてはいけない。もちろん、取材費を出してくれた雑誌に合ったネタというマーケティングの側面もあるだろうが、戦争や紛争下の娼婦という弱者の中の弱者に寄り添うところに、現在の著者の物書きとしての原点が透けて見えてくるのだ。

著者のそのような視点を形成したのは著者の生い立ちとは無縁ではない。著者の家族構成や関係は『日本の路地を−』に詳しいが、本書でも戦時下を旅しながら自らの生い立ちを振り返るところは何とも切ない。被差別部落の家庭で育ち、家庭でも父の母に対する暴力に無力さを感じ続けた幼少期の出口のない体験は壮絶の一語だ。弱者視点にとりあえず立って全体の歪みを映し出すという形だけのマスメディア的手法では到底及ばない弱者の叫びが著者の文章から感じられるのはそうした自己体験が根底にあるからだろう。すでに上原氏の著作を知る人はもちろん、知らない人にもお勧めの一冊である。

『おやじダイエット部の奇跡』

おやじダイエット部の奇跡 「糖質制限」で平均22kg減を叩き出した中年男たちの物語

おやじダイエット部の奇跡 「糖質制限」で平均22kg減を叩き出した中年男たちの物語

175センチで60キロ台半ばの私がダイエットに関する本を取り上げるのは出すぎた真似かもしれない。だが、私は怖いのである。油断すると70キロをらくにこえ、増量がとまらなくなる自分が。日常的に運動をしている身でもないので、筋力が増すわけでもなく、腹の周りにだらしなくつきまとう肉の重みが増すだけである。風呂の鏡をみて「これが俺か」と愕然として節制に励むが、このぎりぎりの戦いを支える私の中にかすかに残る見栄がいつ決壊するかわからない。鏡の前で、張り裂けそうな腹をさすって「これが俺だ」と開きなおる日も近いのではと想像してしまうのである。そして、本書を読むと、それは想像でも何でもなく、三食何も考えずに食べて飲んでいたら、ゆっくりだが確実に、引き返すのが困難な道を歩んでしまうことを思い知らされるのだ。
 
本書はそのような道を辿り、今や、デブであることに開き直ったおやじたち6人が一年発起して減量に向け立ち上がった記録である。体重も職業もばらばらの彼らが共通して取り組んだのが糖質制限と呼ばれるダイエットである。簡単にいうと、ご飯やパン、パスタなど主食を中心に糖質を抜く。糖質さえとらなければ、食べ放題だし、酒も飲める。著者のように徹底的に三食制限する方法から、夕食だけ実践する緩やかな取り組みまで様々だが、結論としては確実にやせている。ダイエットと聞くと、厳しい制限を想像させるが、緩いしばりが、面倒くさがりのおやじたちには向いているのかもしれない。著者の呼びかけで、始めは抵抗する者もいたが始動した「おやじダイエット部」」の6人の平均減量幅は実に22キロ。「キャプテン」である著者は168センチ87キロから3週間で67キロまで減量し、2年間リバウンドはないという。

本書のありがたいのはやせる理屈に加え、おやじたちが実践した具体的な糖質制限メニュが豊富に記載されている点。それぞれが取り組んだ一週間の献立などが記されている。巻末には食品の糖質一覧表や糖質食を提供するレストランの情報も掲載されている。

夏と言えばダイエットに取り組む人も多いだろうが、挫折した人も少なくないはずだ。家族や会社の同僚や部下に毎年減量を宣言して挫折し、「ダイエットやるやる詐欺」と揶揄されるあなたも今年は自分がだまされたと思って取り組むのもありかも。もちろん、私のように何年後かの備えや予防線をはる意味で読むのもありだろう。
余談だが、HONZ代表の成毛も昨年、取り組んでおり減量に成功したらしい。成毛の話を聞いた上で本書を読むと、「太ってもいいや。太ったら糖質ダイエットをすればいい」という誘惑に駆られるのが唯一残念なところか。

『漁業という日本の問題』

漁業という日本の問題

漁業という日本の問題

突然だが、「さかな、さかな、さかなー、さかなーを食べるとー」という歌詞が最近、頭から離れない。ウィキペディアで調べたところ、20年前に作られた曲だった。市販化されたのは10年前で私の記憶はこの時のものだろう。曲名はご存じの方も多いかもしれないが『おさかな天国』であり、オリコンで最高3位に位置したという。

歌詞からわかるように「魚をもっと食べようよ」という水産庁の魚食普及キャンペーンの一環で作られたわけだが、実は魚の消費量は戦後右肩上がりに増え続け、10年前は日本の一人当たりの魚消費量がほぼピークに達した(厳密には2001年)時だ。現在もピークから2割程度落ちているが、歴史的には高水準にある。ここ何十年も「魚離れ」のイメージが強いが、『おさかな天国』のPRなど要らなかったのが魚食を取り巻く現状だと言っても過言ではないのだ。だが、我々、日本人は脳天気に「さかな、さかな、さかなー」と歌いながら魚を腹一杯に今後は食べられないかもしれないと警鐘を鳴らすのが本書。魚を食べたくても食べられない「魚不足」が我々には迫っているのだと指摘する。

いつもは、ここからさらっと内容に触れるのだが、内容に入る前にたまには表紙やタイトルを考えてみよう。おそらく作り手は我々、読者が考えている以上に、細かいことを考えて、作っているはずである。私など普段3秒程度チラ見して終わりだが、その心意気をたまには汲まなくてはいけない。1分ほど眺めてみた。

まず本を捲らずにも危機感が伝わる。寂れた漁船のバックに夕日が沈みかかっている光景。赤みがかった表紙は見た者に何かが終わってしまう危機感を強烈に与える。渡辺淳一もびっくりの落日ぶりである。次に、タイトル。『漁業という日本の問題』。『日本の漁業問題』でなく、漁業を先に持ってきて、「という」が物凄く不器用な形で入ることで漁業問題に矮小化して読んだらダメだよ、日本の根深い問題のひとつだという著者の「やばいよ、日本」メッセージがひしひしと伝わってくる。加えて、著者の略歴。三重大学の准教授である。水産学者である。本人を知らないので大変失礼だが、なんだか堅そうである。日が沈む表紙、不器用な「という」、水産学者。この時点で、否が応でも読む前から背筋を伸ばさずにはいられない。正座する勢いである。

しかし、いざ読み始めるとタイトルと表紙から受けた印象は良い意味で一変する。ゴツゴツとした文体をイメージしていたが何とも平易な言葉で読みやすい。統計資料を豊富に使っているため、論理のスキップもなく論旨も明快だ。漁業はもはや夕日が沈むどころか真夜中であることが嫌でも伝わってくる。

例えば鯖や真鰯はここ三十年で数十分の一に日本の漁獲量が減っている。漁獲規制を設けていないため、漁業者が好き放題に魚を乱獲し続けた結果だ。漁業者は目先の生産量が減るため、規制を望まず、政治家は票田を失い無くないため、メスを入れず、問題を先送りし続けた。まさに、日本の縮図が海上に広がっているのだ。
気がかりなのは頼みの綱であった輸入も減少している点。現在、生産量の減少で輸入量と国内生産量はほぼ同等だが、輸入がじわじわと下落傾向にある。世界的な魚ブームや中国が大量輸入していることで単価が上昇し続けているからだ。このまま国内の生産量が増えず、魚を好き放題食べていたら食卓の魚不足は避けられそうもない。

悲壮感漂う中身ではあるが、問題指摘だけでは終わらないのが本書の読ませる点。ノルウウェーやニュージーランド漁業再生の試みを参考に、漁業行政の改革案を提示する。学者でありながらも政治家に陳情に出向いたり、漁業者達に現状説明と復活に向けて漁獲規制の必要性を説いたりとフットワークの軽さもかいま見られる。本書を読む限り、漁業を取り巻く問題は根深いが、夜があれば朝がくるものだと不思議に希望が持てる読後感がある。思わず「さかな、さかな、さかなー」と叫びたくなってしまう。相当無理があるオチであるのは本人が一番承知しているのだ。